戦国時代に天下の行方を左右した姉川の合戦や賤ヶ岳の合戦において、北国脇往還が重要な舞台となりました。
特に有名なのが賤ヶ岳の合戦における「秀吉の美濃大返し」です。

 天正十一年(1583年)春、織田信長の跡目を巡って覇権を争っていた羽柴秀吉と柴田勝家の最後の決戦が賤ヶ岳を中心に展開されました。
両軍(秀吉軍6万、勝家軍4万)の布陣は共に長期戦の構えで、1ヶ月近くこう着状態が続きました。
4月20日、美濃攻めで賤ヶ岳が手薄と知った勝家軍の主力佐久間盛政・柴田勝政兄弟の軍勢八千が、秀吉の留守中に突破口を開いてしまおうと、不意に余呉湖畔を進んで賤ヶ岳の麓を通って大岩山砦の中川清秀隊を襲い、4時間に及ぶ激闘の末、これを落とすことに成功します。
そして同日、大垣で昼食中に盛政の賤ヶ岳出撃の報を聞いた秀吉は、「われ勝ったり」と叫び、先遣隊を出し北国脇往還沿いの村々に松明と握り飯の用意を命じ、1万5千の兵を率いて午後4時に大垣を出発しました。
盛政は大軍の移動でもあるので、秀吉の率いる本隊が戻ってくるのは早くても21日の夕方と考えていました。
ところが秀吉はその意表をつき、迅速な行動で賤ヶ岳戦線(木之本)に到着します。大垣から木之本までの距離は約52キロありますが、それを5時間ほどで疾走した事になります。そして息つく暇もなく、全軍を動員して反撃態勢に移り、引きあげようとする佐久間隊を追撃する目算を立てました。そして21日の午前2時頃から戦いが始められ、盛政隊の殿軍である柴田勝政隊との間で戦いとなり、秀吉の馬廻り部隊であった福島正則・加藤清正らの大活躍ましよって柴田隊を負い崩すことに成功しました。これがいわゆる「賤ヶ岳の七本槍」であり、この追撃戦で柴田勝政は戦死してしまいます。
柴田勝政隊の前方にあった佐久間盛政隊は柴田隊の残兵を収容し、羽柴勢へ向けて逆襲にかかりました。しかしこの時、佐久間隊後方の茂山に布陣していた前田利家らの部隊が戦線より離脱を始めた事により、連鎖的に裏崩れを起こし佐久間隊は壊乱してしまい、これに乗じて羽柴勢は更に猛撃を加えこの合戦に勝利致しました。

秀吉軍の移動中、高月町馬上(まけ)で休憩した秀吉が寺の住職に「ここは何村か?」と問いました。「マケ村」と言っては不吉であると思った住職が機転をきかし「北マケ村に御座います」と言うと、秀吉は「北負けとな」と言って大笑いし、陣営は大いに盛り上がったという逸話も残っています。




秀吉の美濃大返し