近世の史跡

 慶雲館

明治一九年(1886年)の秋に、翌年2月21日明治天皇が京都行幸の帰路に、大津から船を利用し長浜に上陸される、との報せが入ったそうです。
それを伝え聞いた浅見又蔵は早速私財を投じ、陛下の誕生日である11月3日に行在所の建設に着工しました。
その三ヶ月余りの限られた期間で何とか工事を完了させ、行幸当日の朝に完成したと伝えられています。
慶雲館の建設費は当時としては破格の1万円をかけ、敷地面積は6000余u。
建物は尾州産の総檜造り寄棟造二階建で約500u。
南庭の様式は池泉回遊式で築山を架しています。
明治四五年に京都の名匠植治、小川治兵衛によって作られた石組は、豪華な佇まいを見せ、北庭は平庭になり特に巨石を配してあり、園内には松樹が多く景観豊かにつくられています。
館は南西方が湖に面し、東方は伊吹山が一望出来る絶景の地であり、当時の新聞に「美麗壮観同地に冠たるものなり」と書かれました。
また当時の総理大臣・伊藤博文によって命名された事でも有名です。
その後、慶雲館は浅見氏の別邸としてだけでなく、長浜の迎賓館として使われていましたが、昭和一〇年(1935年)の国史跡指定に伴い、翌年長浜市に寄付されました。
また、この場所は江戸時代後期の絵図に大通寺(真宗大谷派長浜別院)別殿と記され、住職の別荘であったことが確認されています。





 幻住庵

江戸の時代、約150日に及ぶ 「奥の細道」 の旅を終えた松尾芭蕉が、翌年元禄三年(1690年)の4月6日から7月23日までの約四ヶ月間、旅の疲れを癒すため隠棲を兼ねて過ごした草庵。
京阪電鉄石山寺駅の西にある国分山東斜面の近津尾(ちかつお)神社の境内ににあます。
幻住庵は、芭蕉の門人の1人であった膳所藩士菅沼曲翠(1659-1717)が義仲寺で生活していた芭蕉の隠棲地として、伯父幻住老人(げんじゅうろうじん)の旧庵に手を加えて提供したもので、幻住庵の名も幻住老人の名に由来しています。
近年は近津尾神社境内につづく庵跡には朽ち果てた椎の木の袂に立つ句碑と幻住庵跡の石碑を残すだけでしたが、平成三年に幻住庵が復元され、周辺整備も行われています。
芭蕉は、ここからの眺望やここでの生活を殊のほか気に入ったらしく、ここでの生活の様子、自分がこれまで辿ってきた俳諧道への心境、人生観、 当庵の環境や素晴らしさなどを「幻住庵記」に綴っています。










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