近年、欧米諸国で再び日本文化が脚光を浴びています。
しかしながら当の日本人は、自国の文化に対して無頓着・無関心で、海外で評価されたものに対してのみ、関心を示しているのが現状です。
自らの足下に優れた素晴らしい文化が山積しているのに、敗戦の劣等感からか欧米文化にばかり目を奪われている日本人がほとんどではないかと思います。
そして、その文化とは様々な美術品・芸術品等の有形のものにとどまらず精神的な心の分野まで及んでおり、日本独特の精神的な美意識が欠落している現状に大きな不安を覚えるのです。
新聞を賑わす理不尽・不可解な事件の数々だけでなく、日常生活の中にも数々の理不尽が溢れ、いつから日本はこんなに狂ってしまったのかと思ってしまいます。

ここで日本について考える上で、農耕民族であるという視点から考えてみました。
まず比較対象の為に狩猟について考えてみますと、狩猟において最も重要な要素は、狩りをする人間の技量に尽きます。
それに対し農業において重要な要素は、土地と天候が大部分を占めてしまいます。
そして、人間に求められるのは突出した技術ではなく、勤勉さと根気ではないでしょうか。
また、その為に国土の狭い日本において土地に対する執着心がより強くなっていった事も想像できます。そして、天候に関しては人知の及ぶ範囲ではなく、如何に自然と共存していくかに尽きてしまうのです。
狩猟社会の指導者に求められるのは、狩猟の技術であり民衆を率いる統率力だとすると、農耕社会民族の指導者に求められるのは相談役・世話役という資質的に狩猟社会のそれとは対照的な人材が求められるのです。

産業革命以降、実質的に世界を引率してきたのは欧米の指導者であり、それは狩猟民族の指導者によって支配された時代ともいえます。
我が日本も大政奉還以降、欧米文化を積極的に取り入れ資本主義近代国家への転換を図り、日清、日露戦争を経て大国の一角に並び立ちました。
ここで特筆すべきは、欧米文化を受け入れるに当たり「和魂洋才」という至難の姿勢を貫いたという事実です。
しかし、第二次世界大戦(大東亜戦争)の敗戦により日本の精神的な支柱は破壊され、戦勝国である米国の属国としての洗脳活動により日本の精神的な美意識は歪められ、言い換えるなら「洋魂洋才」に成り下がり今日に至るのではと思います。
そして、戦後60年が経った現在、欧米資本主義に基づいた合理主義を掲げる日本人の指導者が続々と生まれていますが、果たして日本という国にとってこういった指導者が合うのか疑問を感じてしまいます。

近年、映画「ラストサムライ」によって武士道が再び脚光を浴びました。
これは、日本の精神文化を破壊した当事者である米国が、これまで邁進してきた合理主義の限界を感じ、武士道、大和魂といった日本の精神文化に拠りどころを求めている…というのは言い過ぎでしょうか?
いずれにしても、安易な懐古趣味ではなく日本人の根幹に関わる精神文化についてもっと真摯に考え、日本という国があるべき姿を取り戻す為にも日本人ひとりひとりが心を磨き上げなければ、日本が日本でなくなるような気がしています。

今は変ってしまったかもしれませんが、諸外国の日本人のイメージとして「礼儀正しさ」を良く挙げられていました。
それは、その対象が人に対してだけのものではなく万物全てのものに対しての礼儀であった為に、より印層深く尊敬の対象とされたのではなかったかと思っています。
誰よりも自然を敬愛し、恐れていた日本人。
人間が自然の中で生かされていることを最も深く感じて生きてきた日本人。
今こそ本来の日本人に立ち返らなければ、明るい未来は望めないのではないか?
そんな思いで一杯です。