秀吉を見届けた琵琶湖
稀代の大出世物語といえば、まず秀吉が挙げられるでしょう。
その出生すら謎に包まれた所も多く、言い換えるならそれ程名も無き家の生まれでありながら、天下人となった異例の出世を果たしたのが秀吉なのです。
そして、秀吉は織田信長に仕える頃より琵琶湖との接点を次第に深めてゆきます。
元亀元年(1570年)、越前朝倉義景討伐に従軍していた折りに、越前金ヶ崎付近を進軍中に突然盟友であった北近江の浅井長政が裏切り織田軍を背後から急襲し、浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機に見舞われます。その際、秀吉はしんがりを願い出てこれをよく防いだのでした(金ヶ崎の退き口)。
間一髪の危機を脱した信長は、秀吉の働きに対し褒美として黄金30枚を与え、この貢献で秀吉の勇名は一気に高まっていったのです。
その後、
姉川合戦を経て浅井長政攻めの功績を称えられ浅井氏の旧領を拝領した際に、秀吉が初めて城主となった
長浜城を築城しました。
またこの頃に、丹羽長秀と柴田勝家より一字ずつをもらい受け、苗字の木下を羽柴に改め、その後も信長の元で信長の「天下布武」の為に忠儀を尽くしていました。
しかし、天正十年(1782年)本能寺の変が起こり明智光秀により織田信長が殺されてしまいます。その時、秀吉は備中国高松城を水攻めにしていましたが、信長の死を知るとすぐさま高松城城主の清水宗治の切腹を条件に毛利方と講和し、京都に軍を返して(中国大返し)、山崎の戦いで光秀を破ったのです。
この功績を盾に、信長の後継者としての存在感を高めてゆきます。そして、信長の跡目を争う形で秀吉と柴田勝家との対立が激化してゆき、天正11年(1583年)近江国伊香郡賤ヶ岳附近での
賤ヶ岳合戦を制し、天下人へと駆け上がってゆくのです。
1685年、朝廷より「豊臣」姓を賜り、太政大臣に就任し豊臣政権を確立してゆきます。その後、四国・越中・九州を征伐し、最後の大敵となった北条氏政・氏直を倒し、秀吉は長きに渡って続いた戦国の世を終わらせたのです。
天下人となった秀吉は、交通の要衝であった
佐和山城を石田三成に治めさせます。
1591年には関白の座を甥の秀次に譲り、
太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになりましたが、1593年に側室の淀殿との間に待望の嫡男・秀頼が産まれると、その二年後に理不尽な理由により豊臣秀次に切腹を命じるのです。更に、秀次の補佐役であり秀吉を長く支えてきた前野長康らも切腹処分となってしまいます。
そして、二度目の朝鮮出兵(慶長の役)の最中、1598年8月18日に徳川家康や秀頼の護り役の前田利家に後事を託しつつ、伏見城にてその生涯を終えたのです。
また、竹生島・
宝巌寺や
白鬚神社などの伽藍を整備させている反面、文禄四年(1595年)、
三井寺に対し欠所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じることもしています。しかし、慶長三年(1598年)秀吉は自らの死期を悟り、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れた為か三井寺の再興を許可しています。
結果論ではありますが、嫡男・秀頼の誕生がもう少し早ければ秀次らが自害する事もなく、秀頼の補佐役にまわることが出来れば豊臣家の栄華ももっと続いていたのかも知れません。