元亀二年(1571年)織田信長は、天下統一に当たり最大の障害でもあった当時強大な武装僧兵勢力を持つ比叡山を焼き討ちしました。そして、その麓にある坂本の治安と近江から京への街道確保の為、明智光秀に坂本城を築かせました。
天正一四年(1586年)、豊臣秀吉は坂本城を廃城とし、浅野長政に命じて大津城を築城。
慶長六年(1601年)、徳川家康は東海道の要衝とする為、大津城を廃して膳所崎に膳所城を築城。


交通の要衝であった瀬田の唐橋を抑えることは、時の権力者にとって必要不可欠な問題であったと思います。しかし、信長の時代には最大の抵抗勢力であった比叡山延暦寺を焼き討ちした後、その周辺地域も管理する必要があった為に麓の坂本に城を築かせたのでしょう。その当時瀬田の唐橋の畔には山岡氏を城主とする瀬田城があり、早くから山岡氏が信長に属していた為に瀬田城と坂本城を併用して統治しようとしたと想像できます。
その後、豊臣秀吉が天下統一を果たすと坂本城を廃し大津城を築かせ、徳川家康が天下人となると大津城を廃し膳所城を築くのです。
これは、信長が比叡山延暦寺を徹底的に破壊したことにより生じた治安の低下も月日と共に落ち着き、秀吉・徳川と瀬田の唐橋の管理に専念していったのではないか、そして、要衝を治めるにあたって自ら指揮した新しい城を築かせたのであろうと想像しています。

また、坂本城・大津城・膳所城共に琵琶湖に張り出した水城で、当時はその湖上に浮かぶ姿は名勝と詠われてきた事も不思議な共通点として挙げられ、城の美しささえも競っていたのかも知れません。

瀬田橋をめぐる城の変遷