信長が駆けた琵琶湖
信長と琵琶湖が接点を深めていくのは、信長が織田家の家督を相続したのち、上洛を目指す頃からのようです。
永禄十一年(1568年)9月、信長は天下布武への大義名分として第15代将軍に足利義昭を奉戴し、上洛を開始しました。これに対して、南近江の戦国大名、六角義賢・六角義治父子が抵抗した為に信長は
観音寺城を攻め込みます。
そして、瞬く間に京の現勢力を制圧し、足利義昭を第15代将軍として擁立した信長による織田政権が誕生しました。この時、信長は義昭から副将軍の地位を勧められましたが、信長は既に将軍家を見切っており、謝絶したといいます。
永禄十二年(1569年)、信長は足利義昭の将軍権力を制限する為、「殿中御掟」九ヶ条の掟書、のちには追加七ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせますが、これにより義昭と信長の対立は決定的なものになっていきます。
そして、義昭は打倒信長に向けて御内書を諸国に発し、朝倉義景、浅井長政、武田信玄、毛利輝元、三好三人衆、さらに
比叡山延暦寺・石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて「信長包囲網」を結成したのです。
元亀元年(1570年)六月
姉川において信長・家康軍と反信長陣営との壮絶な戦いの火蓋が切られ、壮絶な戦いが繰り広げられました。
この姉川合戦では信長側が辛くも勝利しますが、その後、両軍一進一退を繰り返します。
元亀元年(1570年)、「信長包囲網」の一角である朝倉・浅井など防衛戦として家臣の森可成に命じて
宇佐山城を築かせました。
元亀二年(1571年)九月、この宇佐山城を拠点とし、比叡山延暦寺の焼き討ちを指揮します。その後、坂本(比叡山の麓の集落)の治安を守る必要性が出来た為に明智光秀に
坂本城を造らせました。
元亀三年(1572年)十月、義昭の出兵要請に呼応した甲斐の武田信玄は、遂に上洛の軍を起こします。信玄の参戦により信長は窮地に陥りますが、翌元亀四年(1573年)四月、信長最大の強敵であった武田信玄は病死してしまうのです。
信玄の死により、勢いを得た信長は体制を立て直し、義昭を破って京都から追放し、室町幕府を滅ぼしました。
そして、7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させてしまいます。
天正元年(1573年)八月、淀城に立て籠もっていた三好三人衆の一人・岩成友通を滅ぼし、同月、信長は3万の軍勢を率いて越前に攻め入り、刀根坂の戦いで朝倉軍を壊滅させ、朝倉義景を自害に追い込んで朝倉氏を滅亡させました。
更に、
小谷城にも攻め入り、侵攻して浅井久政・長政父子も自害に追い込み、浅井氏をも滅ぼしてしまいます。
その後、長島一向宗の反乱を治め、鉄砲の弾込めによるタイムロスをなくす三段撃ち戦法で有名な長篠の戦いを制し、更に勢力を拡大させていきます。
天正四年(1576年)1月、信長は近江国琵琶湖々岸に
安土城の造成を開始し、三年後の天正七年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成しました。
そしてその後は、この安土城を拠点に天下布武を目指し指揮を執りました。
この頃、越後の龍と呼ばれる上杉謙信とは、武田信玄という共通の敵に対抗する為に同盟を組んでいましたが、信玄が倒れ、更に信長の度重なる宗教勢力への虐殺に激怒し、謙信は同盟を破棄し新に「信長包囲網」を決起するのです。
しかしながら、度重なる幸運に恵まれた事もあり、謙信の死を契機に「信長包囲網」はあっけなく崩壊してしまいます。
謙信の死後、信長の天下布武は加速的に早まり、天下をほぼ手中にしていましたが、天正十年(1782年)六月二日の本能寺の変により、その稀代の生涯を終えてしまうのでした。