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多賀大社  近江国三宮
多賀大社
彦根よりやや南東に位置する多賀大社は、『古事記』にも「伊邪那岐大神は淡海(あわみ)の多賀に坐すなり」としるされ、広く「お多賀さん」として親しまれています。
本尊として祀られている伊邪那岐命、伊邪那美命は天つ神から「この漂へる国を修理り固め成せ(このただよえるくにをつくりかためなせ)」との詔をいただかれて、日本の国土をはじめ八百万の神々をつくられたという伝説がある日本創生の神様とされています。
またこの両神の御子が天照大御神であり、江戸時代には「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」と俗謡に唄われるように、大変な繁栄を誇りました。
鎌倉時代より多賀でも神仏習合が進み、明応三年(1494年)に不動院(天台宗)が建立され、こののち全国に多賀信仰が広まるきっかけとなりましたが、明治の神仏分離令により現在では仏教の影響はなくなっています。




西明寺

滋賀県犬上郡甲良町にある西明寺は、天台宗の寺院で、本尊は薬師如来を祀り、山号を龍応山と称します。
金剛輪寺、百済寺とともに「湖東三山」の1つに数えらます。
寺伝では、三修上人の創建と伝えられています。
伝承によりますと、承和元年(834年)琵琶湖西岸にいた三修上人は、湖の対岸の山に紫の雲がたなびくのを見つけました。その光景を不思議に思い、神通力を用いて空を駆け一気に琵琶湖を飛び越え対岸に渡りますと、山中の池から紫の光が射していました。三修上人がその池に祈念いたしますと、薬師如来像が現われ、その御姿を刻み祀ったのが西明寺の始まりであると伝えられております。
西明寺のある地名を「池寺」というのは、この伝説に基づいています。
承和三年(836年)には仁明天皇の勅願寺となり、寺領が寄進され、伽藍が建築されました。
また「西明寺」という寺号は紫の光が西の方へ射していた伝承に基づいています。
その後、祈願道場・修行道場として栄え、山内に十七の諸堂、三百の僧坊があったと伝えれています。
元亀二年(1571年)、織田信長は比叡山延暦寺の焼き討ちのあと、近江国にある比叡山傘下の天台寺院をも焼き払うことを命じた為に、西明寺も信長配下の武士による兵火にあいました。ところが、寺僧の機知により山門近くの房舎を激しく燃やし全山焼失のように見せかけ、山奥に位置する本堂や三重塔は焼失をまぬがれたといいます。
この兵火の後、荒廃していましたが、天海大僧正・公海大僧正らの庇護を受けて徐々に復興し、今に至っています。
鎌倉時代初期に建立された本堂(瑠璃殿)は釘を全く使わずに建てられており国宝第一号の指定を受けております。
また、紅葉の名所としても有名ですが、不断桜(一年に二度花を咲かせる)があり紅葉と桜を同時に見ることもできます。




金剛輪寺

滋賀県愛知郡愛荘町にある金剛輪寺は、天台宗の寺院で本尊は聖観音(秘仏)を祀り、山号は松峯山(しょうほうざん)と称します。
地名から松尾寺とも呼ばれており、湖東三山のひとつに数えられています。
天平十三年(741年)、聖武天皇の勅願で行基が開いたとされ、そののち嘉承年間(848−851年)に天台宗の高僧・慈覚大師円仁によって再興されました。
天正元年(1573年)、織田信長の侵攻にもあいましたが、幸い本堂や三重塔、諸仏は寺僧の尽力で焼失をまぬがれ、弘安十一年(1288年)建立の本堂・大悲閣は鎌倉時代の代表的な和様建築とされ国宝に指定されております。
源義経が木曽義仲追討の際には武運必勝を願い太刀を寄進し、北条時宗が元軍降伏の祈願をしたともいわれております。
また、この土地は昭和の市町村合併以前は秦川村といったことから、渡来系氏族の秦氏との関係が深いと考えられます。
本坊明寿院には、桃山、江戸初期、江戸中期と、作庭年代の違う興趣に富んだ3つの庭園がありそれぞれが名勝に指定され、桃山時代の庭・宝篋印塔(ほうきょういんとう)にたたずむ水雲閣は湖東随一の茶室として知られています。
春のシャクナゲとともに、もみじの名所として有名です。



百済寺

滋賀県東近江市にある百済寺(ひゃくさいじ)は天台宗の寺院で、本尊は十一面観音(秘仏)を祀り、山号を釈迦山と称します。
金剛輪寺、西明寺とともに「湖東三山」の1つとして知られています。
開基は聖徳太子とされ、推古天皇十四年(606年)、聖徳太子が高麗の僧・恵慈(えじ)と共にこの地に至った際に、毎夜山中からこぼれる不思議な光を見つけ、その光の元を訪ねると上半分の幹が切られて光明を放つ杉の巨木があったそうです。
不思議に思った太子が恵慈に尋ねると、この杉の上半分は百済に運ばれ龍雲寺のご本尊十一面観世音菩薩像となっているという事でした。太子はこのありがたい「御衣木(みそぎ)」に感謝し、この杉を立ち木のまま刻み十一面観音の像を作り、像を囲むように堂を建てたのが、百済寺の始まりとされております。
そのような由来もある為に本尊の観音様は別名「植木観音様」とも呼ばれています。
また開闢に当たっては恵慈を咒願とし、その後百済僧・道欣(どうきん)を導師として供養したともありますので、渡来系氏族の氏寺として開創されたといえます。
鎌倉時代から室町時代までは、近江唯一と言われた五重塔以下三百余りの堂塔坊舎が立ち並ぶ湖東の小比叡と呼ばれる程、壮大で大きな勢力を誇っていましたが、室町時代明応七年に自火によって本堂を焼失し、その後文亀三年の兵火、天正元年信長の焼き討ちにより更に衰徴し、現本堂は慶安三年の建立とされています。



観音正寺

(西国三十三カ所三十二番札所)
 観音正寺ホームページ
聖徳太子像から眺めた麓の風景
滋賀県蒲生郡安土町にある観音正寺は、天台宗(単立)の寺院で、本尊は千手千眼観世音菩薩、山号を繖山(きぬがさやま)と称します。
開基は聖徳太子という伝説が残っており、それは聖徳太子がこの地に来臨された折、琵琶湖の葦原から現れた人魚に呼び止められました。人魚は『私の前世は堅田の漁師ですが殺生を重ねてきたので、こんな姿にされてしまい、今では魚たちに苦しめられています。どうか成仏させて下さい』といって懇願しました。聖徳太子はこの願いを聞き入れ、千手観音像を刻み、推古十三年(605年)に伽藍を建立して観音像を祀ったのが寺の創始となったというものです。
南北朝時代に、この山は近江源氏・佐々木(六角)氏の居城となり観音寺城と称しましたが、巡礼にまじって間者が山上に入ってくるのを嫌い寺を山麓に移転させたといわれています。
その後、北朝の天皇の行宮になったこともありましたが、六角義賢(承禎)・六角義治父子が織田信長に抵抗したため全山が焼失してしまいました。
その後、慶長二年(1597年)に再び山上に上がり教林坊の宗徳法橋が本堂を建立し、諸堂を再興したとされています。
彦根城の欅御殿を移築した壮大な本堂もありましたが、平成五年(1993年)に本尊と共に焼失するという惨事に見舞われました。しかし、平成十六年(2004年)に木造入母屋造の本堂は再建され、天然香木の白檀でつくられた本尊千手観音坐像が祀られています。
境内に立つ仁王様



長命寺
(西国三十三カ所三十一番札所)

長命寺
近江八幡市にある長命寺は天台宗(単位)の寺院で、山号は姨綺耶山(いきやさん)。 本尊は、千手十一面聖観世音菩薩三尊一体です。聖徳太子が開基したものとされます。
十二代景行天皇の代、武内宿彌(たけのうちのすくね)がこの山に上り、『寿命長遠諸元成就』の文字を柳の大木に彫り、長寿を祈願した結果、三百歳の長寿を保ったと伝えられます。その後、聖徳太子がこの地を訪れ山に上り、武内宿彌が彫った柳の木を見、感嘆しているとそこに白髪の老人が現れ、『此の霊木で千手十一面聖観音三尊一体の聖像を刻み、伽藍を建立すれば武内大臣も大いに喜び、諸国万人等しく崇拝する寺となるであろう』と告げ立ち去ったといいます。太子はこのお告げの通り、この柳の木で千手十一面聖観音三尊一体の像を刻み、推古二七年(619年)に本尊として祀り、武内宿彌長寿霊験の因縁で長命寺と名付けたのがこの寺の創始とされています。
平安時代前期に寺院の基盤ができたと考えられており、その後、近江守護佐々木定綱(さだつな)が戦死した父の菩提を弔う為に、平安時代後期に本堂をはじめ、釈迦堂・薬師堂・太子堂・護摩堂(ごまどう)・宝塔・鐘楼・仁王門などを建立しました。
しかし永正十三年(1516年)戦火の為、伽藍の殆どが焼失してしまい、現存する建造物は大永年間から慶長年間(1521-1614年)にかけて再建されたものといわれています。
また、麓から長命寺までは八〇八段の石段の参道によって結ばれており、傾斜のきついところも多く結構厳しい道程ですが、途中何カ所も休憩するところ(ベンチ)がありますので、ゆっくりと登られる事をお勧めします。