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石山寺
(西国三十三カ所十三番札所)

良弁(ろうべん)により開基された石山寺は琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にある真言宗の寺院で、本尊は如意輪観音を祀っております。
山号は石光山(せっこうざん)と称します。
天平の頃(奈良時代)、時の聖武天皇は東大寺大仏の造立にあたり、仏像に鍍金(金メッキ)を施すために大量の黄金を必要としていました。そこで良弁に命じて、「金の山」と信じられていた吉野の金峯山(きんぷせん)に祈らせたところ、良弁の夢枕に吉野の金剛蔵王(蔵王権現)が現われ、「金峯山の黄金は、(56億7千万年後に)弥勒菩薩がこの世に現われた時に地を黄金で覆うために用いるものである(だから大仏鍍金のために使うことはできない)。近江国志賀郡の湖水の南に観音菩薩の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい」と、告げました。お告げに従い石山の地を訪れた良弁は、比良明神の化身である老人に導かれ、巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の六寸の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てました。その二年後、陸奥国から黄金が産出され、良弁の修法は無事に効果を現わしましたが、如意輪観音像が何故か岩山から離れなくなってしまいました。やむなく、如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の草創といわれております。
本堂の建つその岩山は、天然記念物の珪灰石(けいかいせき、硅灰石とも書く)といい、これが寺名の由来ともなっています。
石山寺は、京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場であると共に、『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、紫式部が石山寺参篭の際、八月十五夜の名月の晩に「須磨」「明石」の巻の発想を得て『源氏物語』になったとする伝承もあり、本堂には「紫式部の間」が造られています。
また「近江八景」のひとつ「石山秋月」でも知られています。

建部大社 近江国一宮

建部大社は、滋賀県大津市に鎮座する神社。
一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことで、社格は、式内社(名神大)、旧官幣大社。
主祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)で、天明玉命(たまのおやのみこと)が相殿神。また権殿に、大神神社から大己貴命(おおなむちのみこと)を勧請しています。大己貴命とは大国主命の別称でもあり日本武尊の御子にあたります。
景行天皇四六年(116年)に神崎郡建部郷に、景行天皇の皇子である日本武尊を建部大神として祀ったのが始まりとされ、天武天皇四年(675年)に現在地へ移転しました。
古くから歴代朝廷の尊信が驚く、また武将たちの崇敬も深く集めました。特に平安時代末、源頼朝が平家に捕らえられて伊豆に流される途中、建部大社に立ち寄って源氏再興の祈願をし、見事にその願が叶って以来は、武運来運・出世開運の神として信仰を集めました。
正法寺
(西国三十三カ所十二番札所)
滋賀県と京都の県境にある標高443mの岩間山に座する正法寺は、山深いお寺であり「岩間寺」とも呼ばれています。
山号は岩間山(いわまさん)と称します。
養老六年(722年)泰澄大師が元正天皇の勅命を奉じて、霊地を求めこの地を行脚されました。その時、傍らの桂の大樹の中から千手陀羅尼経が聞こえてきましたので、その霊木を以て千手観音・吉祥天・婆蘇仙の三尊を刻まれ、その胎内に天皇の御念持仏を納められ、それらを本尊とし開創されたと伝えられております。
現在でも、その子孫にあたる桂の木が「夫婦桂」と呼ばれ親しまれています。
正法寺の本尊である観音は、「毎夜日没とともに厨子を抜け出て人々を苦しみから救う為に百三十六地獄を駆け巡り、日の出頃、汗びっしょりになられて岩間山へ戻られる」という言い伝えもある「汗かき観音」として有名です。
また、江戸時代の俳聖松尾芭蕉との縁も深く、本堂横手には
“古池や蛙とびこむ水のおと”
を詠んだと伝えられている「芭蕉の池」が残っています。
三井寺(園城寺)
(西国三十三カ所十四番札所)
一般には三井寺で親しまれていますが、正式には園城寺(おんじょうじ)といい天台寺門宗の総本山であり、山号を長等山(ながらさん)と称します。
本尊は弥勒菩薩を祀っており、日本三不動の一である黄不動でも著名な寺院であります。
また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られています。
三井寺は7世紀に大友与多王によって大友氏の氏寺として草創され、9世紀に円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興されました。
その後、幅広い信仰を集めて栄えましたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が度々焼き討ちを受けました。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともありますが、こうした苦難を乗り越えてはその都度再興されてきたことから、「不死鳥の寺」と称されています。
大門(重文)−仁王門とも呼ばれ、入母屋造の楼門(2階建ての門で、下層と上層の境には屋根の出をつくらないもの)。もともとは近江の常楽寺(滋賀県湖南市)にあった門を慶長六年(1601年)、徳川家康が寄進したものとされます。
唐崎神社

大津市唐崎1丁目の湖畔に位置する唐崎神社は日吉大社の摂社で、古来は朝廷が琵琶湖唐崎から淀川までの「七瀬之祓(ひちせのはらえ)」の第一処(しょ)として、国家安泰の祓霊場に定められた所です。
日吉大社の社伝によりますと、舒明天皇六年(633年)、琴御館宇志丸宿禰(ことのみたちうしまろのすくね)がこの地に居住し「唐崎」と名附けたといいます。
持統天皇の時代に創建されたと伝えられ、宇志丸宿禰の妻である女別當命(わけすきひめのみこと)が祭神として祀られています。
かつては「女別当社」と呼ばれており、婦人病に霊験ありとして広く信仰を集めました。
境内には、宇志丸宿禰が植えたとされる「唐崎の松」があり、境内から琵琶湖を背景に唐崎の松を描いた歌川広重の「唐崎の夜雨」で知られており、近江八景のひとつとして現存する数少ない場所です。
宇志丸宿禰が植えた初代の松は天正九年(1581年)に大風で倒れ、現在ある唐崎の松は樹齢約二百年の三代目で、金沢の兼六園にも二代目の子種が移され「名勝・唐崎の大傘松」として保存されています。
そして、二代目の松の枝を支えていた礎に使われていた岩が、境内を一巡し再度最後に念を込めて祈る拝所として境内に置かれており、霊松の精気にふれる事が出来る「念押岩」として祀られています。
また“唐崎の松は 花より朧にて”
と詠んだ松尾芭蕉の歌碑も境内にあります。
日吉大社

滋賀県大津市坂本にある神社で、全国に位置する日吉・日枝・山王神社の総本宮でもあり、俗に山王権現とも呼ばれています。
西本宮に大物主神、東本宮に大山咋神を祀り400,000uの境内を持ち、山王二十一社をはじめ、古くは境内社108社、境外社108社の神々が鎮座しており、現在でも竈を祀る社など数多くの社が鎮座しております。
また、猿を神の使いとして崇拝することで知られています。
日吉大社の歴史も古く『古事記』にも「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」と記されており、更に近江京遷都に伴い大物主神が大神神社より勧請されました。
その後、比叡山上に延暦寺ができたこともあり神仏習合が進み、山王神道の拠点となっていきました。中国の天台山国清寺の山王祠にならって山王権現と呼ばれるようになりました。
元亀二年(1571年)織田信長の比叡山焼き討ちが行われ、日吉大社も灰燼に帰してしまいましたので、現在見られる建造物は安土桃山時代以降に再建されたものです。

慈眼堂
延暦寺慈眼堂は、近世天台宗の慈眼大師天海大僧正(?〜1643)の廟所であり、木造慈眼大師坐像(重要文化財)を祀っています。
1643年に家光によって建てられた慈眼堂は、禅宗様式の近世における典型例として、内部の厨子・須弥壇と共に質の高い貴重な建築といわれています。
天海は、徳川家康・秀忠・家光の三代将軍に仕え、その信任も厚く、慶長十二年(1607年)比叡山探題に就任し比叡山南光坊に移り住み、織田信長の焼き討ちによ
り荒廃した延暦寺の再興に尽力し、寺観を整えると共にその寺格を元の確たるものに戻した功績は高く評価されています。
そして、天海の没後、慶安元年(1648年)後光明天皇から慈眼大師の諡号を賜られますが、出生に関しては謎が多く一説には、山崎の戦いにおいて命を落とした明智光秀が実は生き延び天海となったという話が、まことしやかに語られています。
比叡山延暦寺
最澄により開かれた天台宗の本山寺院。
「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)など、三塔十六谷の堂塔の総称ですが、比叡山全域を境内とする寺院ともいわれています。
延暦寺は数多く名僧を輩出しており、融通念仏の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが修行時代を比叡山で営んでいることから、「日本仏教の母山」とも称されている。日本仏教の代表的な聖地であり、世界遺産にも登録されています。
また桓武天皇が山城の国(京都)に遷都し平安京を開くも、度重なる疫病や飢饉を即位の際にお家騒動の犠牲となった異母弟である前皇太子他戸親王とその母であった皇后井上内親王の祟りであると考えた桓武天皇が平安京の鬼門にあたる比叡山に延暦寺を開かせ、魂静めを行ったという説もあります。